これまでの人生で一番ハマったゲームは間違いなくポケモンだ。マリオカートやどうぶつの森、そしてPUBGにも夢中になったけどポケモンには桁違いに時間を費やした。
ポケモンが私を育てた
厳選沼にどっぷりと浸かった「ソード」
しばらくポケモンから離れていた私を再び沼に引きずり込んだのは、2019年に発売されたポケモンシリーズ第8代目にあたる「ソード・シールド」だった。
任天堂スイッチになりグラフィック性能が上がり、ダイマックスなどの新しいシステムも加わり、育成面でも多くの改良が施された名作である。
伝説ポケモン「ザシアン」と出会うのがクリア後というのも新鮮だった。クリアに費やした時間よりクリア後のプレイ時間の方が圧倒的に多い。
ワイルドエリアでミロカロスを探したり、育て屋の前で自転車を漕ぎまくって色違いを出したり、ミントとドーピングアイテムで魔改造したり。
ランクマッチは一度もやらなかったけれど、ただ育てるというその体験そのものが楽しかった。その時間でポケモンではなく自分を育てていたら今頃どうなっていただろうか。
思い出に浸った「ハートゴールド」
幼少期の思い出は深く心に刻み込まれる。ソードをひとしきり遊んだ後は、DSの「プラチナ」と「ハートゴールド」を数年ぶりに再プレイした。
1999年発売の金銀は世代ではないので懐かしい気持ちにはならなかったが、ジョウト地方を旅した後にカントー地方も旅できる骨太ストーリーは非常に満足感があった。
特に印象に残っているには伝説ポケモン「ミュウツー」の捕獲だ。特性シンクロのひかえめなポケモンを先頭にしてミュウツーと何度も出会った。
捕獲するたびに個体値計算ツールを使って、すばやさがVで特攻もいい感じの個体が出たところでハートゴールドは終了した。
生まれ持ったパラメータである「個体値」と、どんなポケモンを倒してきたかのパラメータである「努力値」によって最終的な能力値は大きく変わる。
小さな子でも大きなお友だちでも、自分の好きな形でポケモンを楽しむことができる。その自由さと奥深さがポケモンの魅力だと思う。
逆行する時間「アルファサファイア」
ハードウェアが変わればグラフィックやバトルシステムは大きく変わる。しかし、新しいもの=より良いものとはならないのだ。
第4世代にあたる「ダイヤモンド・パール」では、ドーピングアイテムで振れる努力値は100までという上限があった。残りの150は実際にポケモンを倒す必要があった。
それは面倒な作業ではあったけれど、その手間があったからこその育成を終えた後の達成感があったのも事実だ。
派生作品という位置付けだと思うが、ポケモンピンボールという作品も思い出深い。何らかの条件を満たすと伝説ポケモンを捕獲できるチャンスが訪れる。
グラードンやカイオーガと違いレックウザはぷかぷかしているのでボールを当てるのが大変だった。タマザラシがボールをヘディングする面も好きだった。
その後は、2014年に3DS用として発売された「オメガルビー・アルファサファイア」もプレイした。2002年に発売された「ルビー・サファイア」のリメイク作品だ。
クリア後の「エピソードデルタ」は蛇足だという意見も多いが、レックウザが破壊した隕石からデオキシスが登場するシーンは鳥肌ものだった。
そして現代に戻る
そして再び「ソード・シールド」の色違い厳選に戻った。現実の動物や生物がモデルになることが多いポケモンだけど、ドラパルトは何がモデルなんだろう。
ここ最近は時間がないのも言い訳にプレイしていないポケモンだけど、思い返してみるとポケモンから学んだことは非常に多い。
ポケモンから学んだこと
それぞれのポケモン(人)には強み・弱みがある
ゲンガーの攻撃に努力値を振る人はいない。ゲンガーは攻撃が低く特攻が高いから、特攻に努力値を振って火力を上げるのがセオリーだ。
オノノクスの特攻に努力値を振る人はいない。オノノクスは攻撃が高く特攻が低いから、物理技で固めるのが最も強みを引き出せる。
それと同じように、体を動かすのが得意な人、頭を使うのが得意な人、ちょこまかと動くのが得意な人、無限の体力を持っている人、いろんな人が現実にいる。
そして、足の遅い人が「どうして私の足は遅いんだろう」と悩む必要はないと思う。それはラムパルドが自分の遅さと嘆くようなものだ。
それは違う。圧倒的な物理火力を持っているではないか。相手をワンパンできる火力と物理技を持っている。伸ばすべきはその火力で、足の遅さを補うために努力するのは違うと思う。
間違った努力は結果を生み出さない
素早くなりたいラムパルドは日々フローゼルを倒し続けた。結果すばやさは少しだけ上がったが、同時に自慢の火力は中途半端になってしまった。
ラムパルドより素早いポケモンは星の数ほどいる。せっかく強化したすばやさは大した役には立たず、むしろ中途半端な火力のせいで自分の強みを失ってしまった。
センター試験を否定するような主張になってしまうけれど、弱みを克服して平均的にという努力は結果その人の魅力を半減させてしまうことに繋がると思う。
英語が得意な人はその英語を極限まで突き詰めて、最終的にそのフィールドで活躍した方がいいのではないかと思う。たとえそれ以外が壊滅的だったとしても。
現実的にはそうもいかないのだろうけど、人それぞれには伸ばすべき芽があり、その芽を伸ばすことに全神経を注ぐことでその人の魅力は花開くと信じている。
他者との比較は不幸の種
ウパーは悩んでいた。アルセウスと比べてどうして自分はこんなにも弱いのだろうと。あのアルセウスと比べて、自分は攻撃力も防御力もすばやさも何もかも劣っている。
でも、ウパーはかわいい。それだけで十分ではないか。かわいいからという理由だけでウパーを育てた人がこの世に何万人いたことか。
他者との比較は不幸になるだけだ。他の人と比べて劣っている自分に嫌になるよるも、自分が持っている魅力に目を向けるべきだ。
今がダメだからこの先もダメとは限らない
コイキングは悩んでいた。自分はただ跳ねることしかできない。跳ねるだけでは相手を倒せないから、学習装置で育ててもらうしかない。
ヒンバスは悩んでいた。能力値は低く見た目もかわいくない自分は、ずっとこの先もこのままなのだろうかと。
ある時、コイキングはギャラドスになった。厳ついビジュアルと、攻撃と耐久を兼ね備えたステータスを手に入れた。
ある時、ヒンバスはミロカロスになった。美しいビジュアルと神秘的な鳴き声、じわじわと相手を追い詰めることのできる耐久を手に入れた。
今がダメだからこの先もずっとダメとは限らない。どこかのタイミングで大化けする時が来るかもしれない。それがいつかは分からないけど、とにかく前に進むしかないのだ。
まとめ
これは自分がぼんやり想像していた話で、ポケモンというゲームがそのようなメッセージ性を持っているかは分からない。
でも、ポケモンをプレイする中で何かの学びや気付きが得られたのであれば、ゲームという時間も無駄ではなかったと思う。
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